『井上くんへ』

 井上くんに手紙を書いている。

 便箋はいつしか十字キーに変わり、真っ平なガラスのキーボードになってからもずいぶん経った。今便箋と言ったけれども、実のところぼくらの世代なんかがまともに文通をしたはずもなく、実家の引き出しで目にした黄ばんだ紙の束を指して「ビンセン」と呼んでいる。

 考えてみれば、人の往来があるわけでもない近所のポストに投函したとして、それが相手に届くというのも不思議な話だ。赤い塗装はとっくに剥がれ落ちていて、パッと見たら廃墟の表札、閉園した遊園地の看板なんかと見分けがつかない。それでも九割以上の郵便物は確実に郵送されているそうで、郵便制度の耐久性が優れているのか、それを支える人が献身的なのか、ただただ頭が下がるばかり。

 はてさて、ぼくがペンのインクをツと滲ませて綴っているのはなぜだろうか。格好がつくから?手元に残るものが好きだから?「自分の」手元に残るわけではないのに?

 句点の後に続ける言葉が見つからないまま時を過ごしているうちに、自分のしていることがふと分からなくなって、とりとめのない考えがぐるぐると頭の中を回りだしていた。自分が何を考えているのかさえよくわからないまま、頭の中は過去へ、過去へ……

 

 

 はじめて井上くんと会ったのは、確か秋葉原のファミレスであったと思う。その日は割合有名なハコでアイドルのライブがあって、別段興味のなかったぼくも友人に誘われて足を運んだのだが、ライブ後の交流会、もとい宴会場所で揉めていたのだった。いつもなら顔見しり程度の緩いグループでまとまって居酒屋にわらわら押しかけるところなのだけど、この日はどうも人数が多くて収拾がつかない。結局、今日は未成年も多いから別々にしましょう、と年長の人が仕切ることになって、若いぼくらは中央通り沿いでイタリアンを食らうことに落ち着いていた。

 ミラノ風ドリアを単品で注文。ぼくの座ったテーブルは六人席だったのだけど、そもそもアイドル目当てで来ていたのは二人、メイド喫茶で働いているノブナガさん――この時はまだ高校に通っていたらしい――と友人だけで、彼女らは早々にアイドル談義をはじめてしまっていた。黙々と食らっていても仕方ないから、残されたぼくらも今やっているアニメはこれが面白い、だとか、誰々さんがゲームセンターの大会で優勝した、だとか、書いた小説をネットにアップしたから読んでほしい、だとか、まあそういう適当な話題を振りあって和気あいあいとやっていたのだけど、角席にいた井上くんは黙々とパソコンを弄っていた。それを咎めるような人の集まりではないし、時折小気味よく響くエンターキーの音がなければ彼の顔さえ忘れていたと思う。一杯百円かそこらの安ワインで隣のテーブルが賑やかになってきて、若い人も多いからそろそろお開きにしましょうという段になってSNSのアカウントを教え合う話になり、その時はそれで別れたのだった。その時の井上くんは一九九〇年代のアニメキャラクターをアイコンにしていたと思う。

 

 その後しばらく彼に会う機会はなかったのだけど、SNSを通じて彼の人となりはなんとなく知った気になっていた。実際に会ったらインターネットでの印象と違っていた、というのは良く聞く話で、悲喜こもごもなエピソードに溢れているけれども、それは考えてみれば当たり前だ。ぼくは当時、学校やその周辺の「リアル」で関わりある人と繋がるアカウントと、情報収集用のアカウント、知らない人と繋がるためのアカウントを別々に持っていて、ぼくが井上くんと繋がっているアカウントはこの三番目だった。あの夜から程なくして、彼がめっぽうプログラミング――とくに「要求された動作をするプログラムを書く」領域――に強いことを知った。年上の連中に混ざって同人ゲームの開発なんかも手伝っていて、ずいぶん「使い物になる」ことも小耳に挟む。大人に都合よく使われているのか、自覚の上で求められるままの振る舞いをしてご機嫌をとっているのか、今にして思えばたぶんその両方だったと思う。人間評論家をつい気取ってしまうのがインターネットの悪いところで、ぼくは密かに「こいつ、意外としたたかな奴だ、できる」などと評価していた。

 ともかく、ぼくも井上くんもこのアニメが面白いだとか、このゲームは名作だからやるべきだとか、読んでいる本だとか、プログラミングだとか、互いに趣味のことしか書きやしなかった。学校はどうしているのか、とか、どういう家、土地の出身なのか、とか、そういうのをなるべく脱臭するのがこの「繋がり」を保つのに良いことくらい互いにわかっていたはずだ。それを繋がりと呼ぶ人がどれだけいるのかは分からない。趣味について話す時の言葉づかい、性格、表情しか見せることのないやりとり。見えているのはその人のほんの一部分にすぎないのだけど、いつしかインターネットを通じた印象が「彼」になりかけていく。二度目に会ったのはそんな折、その年の暮れだった。

 

 昌平橋の近くにある揚物屋が大食い選手権をやるというので、三千円欲しさに行列に並ぶと、見たことのある顔を見つけた。思い出せないまま話しかけるのは少し躊躇したが、駄目元で声をかける。

 「どこかでお会いしましたか」

 「知らないですね」

 彼が顔を上げた。

 「ああ思い出しました、あのアイドルの」

 「君か、あんまり食べない人なのかと思っていた」

 会話終了。互いにスマホを取り出し弄ろうとしたところで、丼の臭いが染みついたエプロンの店員が列を数えながら挑戦するコースを訊いてきた。ぼくは三杯で三千円目当て、彼は四杯で五千円。よく食べるんですね、という率直な感想を漏らすと、金欠だからね、という答えが返ってきた。再びの沈黙。一度の長い沈黙よりも、二度の沈黙の方が気まずいものだ。たどたどしく会話を紡いでいると、唐揚げの山が助け船のように届く。垂れていくソースは店の黄ばんだ照明に照らされてどす黒く、皿のいちばん下の方に折り重なっていくのが見えた。肉の山を崩していくのは会話を続けるよりずっと楽で、十五分後にぼくらはささやかな賞金を手にしていた。

 胃袋から日本を元気に、などという暑苦しい標語、脂ぎった店主とともに記念撮影をして店を出る。完食のタイミングまで同じで、いよいよ離れるタイミングを失っていた。会う約束のない人に会うのは難しいが、会ってしまった人と別れるのはもっと難しい。先にそれじゃあ、と言ったら負けのような気がして、気づけば一緒に橋を渡って小川町のほうへ抜けていた。郵便局のあたりで彼がおもむろに口を開く。

 「なんでこっち来てるんですか」

 「散歩がてら、ね」

 そんな散歩があるか。今日は咄嗟に出る言葉すべてが上手く嵌らない。

 「それじゃあ新宿まで行きましょうか」

 その声があまりにも穏やかで、知っている彼ではなかったものだから、ぼくは思わずハイッと畏まった返事をしてしまった。

 神保町の古本街を過ぎ、青空の似合う建物の背丈がいくぶん小さくなってきたあたりで、プログラムと人間の反応の違いってなんでしょうね、と彼が聞いてきた。あからさまにぼくの頭を値踏みしているようにも思えたのだけど、それがかえって新鮮で、不思議と嫌な気持ちはしなかった。その時はどう答えたのだっけ?同じ刺激に対してプログラムは同じ反応を示すけれど、人間はその都度少しずつ違うように思う、と無根拠なことを言ったような気がする。彼は「まったく同じ刺激」という仮定は無意味だね、質問が良くなかった、と言ったきりまた黙りこくってしまった。厳密な話がしたいのか、したくないのか?会話の内容は大事ではなくて、なんとなく場が持てばそれで良かったのだ、と思い直す。広かった道路が少し狭くなり、靖国の前を通るころには、内容のない会話がまたはじまっていた。その後は時々肩と首を廻しては眉を広げ、またもとに戻す彼の様子だけを覚えている。

 

 あれからもう四年経った。特に気が合うわけでもなかったけれど、たまたま会う機会がそれから何度もあって、そうこうしているうちにたまたま彼の苗字が井上だと知った。ところで、SNSのアカウントをころころ変えているうちにいつの間にか彼はぼくの視界から消えてしまって、今ではどこで何をやっているのかも分からない。偶然会うこともぱったり無くなってしまった。

 会った人のことはよく覚えている方だと自負しているけれど、それはきっと「最初の印象をずっと引きずっている」程度にすぎなくて、その人そのものを知っているのとは程遠い。無意識のうちに自分の経験や価値観で規定した視界からしか誰かの事を知ることができないというのは、世界を見落とし続けているようで、なんだか寂しい感じもする。ノブナガさんは「人間観察なんて自身の中身がないひとの悪趣味」だという。自分の中を見つめる目ばかりを大きくしたって駄目だ、もっと他人のことをよく見ろ、見るというのは一方的にじろじろ眺めることじゃない、見られてはじめて本当に相手を見たことになるのだ、と。全くわからないわけでもない。秋葉原の街はあれから更に外国人が増えて、パフォーマンスをやる店もさらに増えた。彼女は今、昔と変わらない丈のメイド服を着て、半分アイドルみたいなことをやっている。客に見てもらう仕事をやっているようでいて、実のところは逆に街やそこにいる人を覗きこんでいるのだろうか。しかしながら、そこまでして他人を「見る」ことを徹底できるほど自分はタフではない。封筒を閉じながらため息をつく。

 他人をきちんと見るとはどういうことか、いつも考える。SNS上で見えている姿が一部分にすぎないのは当然として、実際に対面して言葉を交わせば「その人そのもの」に近づけているのだろうか?心を開くとか、開かないとかそういう問題ではなくて、ぼくが生まれてきてから今まで見てきたものと、彼が見てきたものが違っていて、そのせいで同じものを見ても見方がまるきり違っている、そういう中でぼくらは触れ合えるのだろうか?

 でも、本当に触れ合えなくともよいのだ。絶望する必要はない。ぼくの記憶にとって、彼が人間か幽霊か、記憶のデッチアゲではないのか、といったことは問題ではない。ファミレスの記憶、あの街の記憶とともに彼は存在するのだ。今この瞬間、ぼくの中に彼がいたということをこの手で便箋に刻む。届く先は虚空でも良いのだ。今はただ、したためたその姿をいとおしく思って……

 

 

 ことばをひらり、彼の気配がするところに放り投げたい。

「硝子ドール」に生き血の臭いを嗅いだ アイカツ!5thフェスによせて

 「永い物語よ 自分だけに見える鎖に繋がれたまま」

 こんなサビを聞いたことのあるアニメファンは多いだろう。

 「吸血鬼キャラ」藤堂ユリカの持ち歌ともいえる、アイカツ!シリーズ楽曲の中でも有名な「硝子ドール」は、2018年9月8日『アイカツ!シリーズ 5thフェスティバル!!』においても披露された。個人として特筆したいのは、そこでマイクを持っていたのが「声優」沼倉愛美であったことだ。

 

歌唱担当制度をめぐる概要

 アイカツ!シリーズは長らく、「キャラクターの声と歌唱を別の人物が担当する」独特のシステムを用いてきた(キャラクターの声をあてる声優に対し、歌を担う側の担当を「歌唱担当」と呼び表す)。前作までの「歌唱担当」をアイカツ!の看板を背負うアイドルユニットとして「解散」させ、声優に歌唱をも担当させる新作『アイカツフレンズ!』をスタートさせた。この状況で声優と歌唱担当の一部が参加して開催されたのが「アイカツ!5thフェス」だ。

www.aikatsu.net

 開催が告知された段階で、解散済みの「元」歌唱担当が歌うのか、そもそもどのようなイベントなのかなど、アイカツファンの間では様々な憶測がなされた。

 蓋を開けてみれば、歌唱担当が歌を披露するばかりか、今まで決して歌うことのなかった「声優」が声優同士、また歌唱担当との共演を実現させており、アイカツ!ファンは現実離れした光景を目にすることになった。

 「声優・沼倉愛美の歌う硝子ドール」は、このような文脈による貴重なパフォーマンスである。

 

個人としての「硝子ドール」体験

 前述の「硝子ドール」は、本稿執筆者にとっても特別なものとなった。

 声優ライブに関して、アイドルマスター(765AS)で「アイドルもの」にはじめて触れながら、周囲がアイドル「アニメ」そのものよりも歌唱を担当する声優に傾倒していくのを目の当たりにして「声優ライブ」を忌避するようになり、『アイカツフレンズ!』登場がその抵抗感を和らげた、という経緯は前に触れた通りである。

arakutag.hatenablog.com

 5月のラゾーナ川崎でのイベントでは、声優が顔出しで歌うことに引っかかりながらも「楽しむ」ことができていた(当時はこれでも大きな進歩だと感じた)。

 「声の演技をすることが本職の声優が」「生身の身体で」アニメのキャラクターを演じる、この危うさを一瞬だけ忘れて文字通り「何も考えずに」楽しむ、これができたのは今回の「硝子ドール」がはじめてだ。

 

「楽しむ」ことを可能にしたもの

 どうして今回「純粋に」楽しめたのだろうか。

 

・イベントそのものに「今まで(アイカツで)歌唱がタブーだった声優が「ハレの日」として特別に歌を披露する」性質があったこと。

・硝子ドールを歌った沼倉愛美が「765AS」でも馴染み深い声優であり、また「舞台上のアイドルを演じる」ことに際し優れた演技力・歌唱力を持っていたこと。

・硝子ドールが「アリスブルーのキス(男性声優)」→「コズミックストレンジャー(「歌唱担当」+男性声優)」→「Passion flower、MY SHOW TIME!(「歌唱担当」+女性声優)」→「Forever Dream(女性声優単独)」と、周到に「女性声優が単独で歌う」準備がされた上での披露だったこと(「Forever Dream」も普通に楽しんではいたが、憑き物が落ちたような感じがしたのは「硝子ドール」だった)。

アイカツ!シリーズにはアニメーターやプロデューサー、楽曲の担当者など、声優以外の「作り手」が個人として表に顔を出すのを比較的許容する空気がある(この関係で「脇の甘さ」が出てしまう時がたまにあるけれど、それでもこの空気は好きだ)。日頃から個人としての作り手を多く目にすることで、声優をも「作り手の1人」、個人として受け入れられたこと。

 

 考えれば考えるほど、自分が声優に関連して持つ屈折した気持ちを乗り越えるのに「アイカツ!5thフェス」が、硝子ドールが、ぴったりハマっていたように思う。

 

今までとこれからについて、雑記

 「アイカツ!5thフェス」1日目から帰宅した後、2日目が開催されている9月9日に本稿を執筆している(諸事情により2日目の参加は叶わなかった)。

 「声優が舞台上でアイドルを演じる」ことが、声のお芝居をすることにどれだけ負担になるかは知る由もないが、実のところ相当ではないかと思っている。最近のアイドルアニメ隆盛をみていると、歌ったり踊ったりできなければ声優として立ち行かない、そんな状況にはなってほしくないとも思う。それでも、声優自身がアイドルの役に入れ込んでいるのは今回十分すぎるほど分かったし(いや、元々分かってはいたが)、なにより「アイカツ!5thフェス」を心の底から楽しんだ今の自分に言えることはない。

 幕張メッセを遠くから見ていると、もしかしたら自分は「声優の追っかけをしている人」以上に、声優を特別扱いしていたのではないかという気にさえなる。

 

 現実から離れる「ハレの日」を作り出すことに真剣になるのは、悪いことではない気がする。

 テレビアニメ「アイカツ!」には、明らかな悪人は登場しない。「マイナスをゼロにではなく、ゼロをプラスにする物語だ」とはインターネットのどこかで聞いた表現だが、この世の終わりが訪れたり、家庭や地域が荒れたりするわけではなく、善人が切磋琢磨する、これをドラマにした物語だ。

 そんなお話を書く脚本家の人だって、厳しい現実を沢山経験している。それでも綺麗な物語を書くのは、相当「真剣」でなければできない。

 舞台に立つ声優の人もそうだ。「歌唱担当」の人だってそうだ。イベントスタッフ、アニメスタッフ、テレビ局、広告代理店…

 それぞれが抱える問題に目をつぶり、作り出された「ハレの日」に感動する、これが関わった人の「真剣さ」からくるものだとすれば、それは自分にとって「善」だと、そう思える気がする…。

 

 どうしようもなく「アニメ的なもの」「アイカツ!」が好きで、好きかどうかさえ分からなくなっても囚われていて、プライドさえかけている、そんな人々がいる。囚われているからこそ、その中で少しでも楽しもうと足掻く。もう少し上手に世渡りをする人がいるのは知っているけれど、大なり小なり人はそういう性質を持っている気がするし、やっぱりそういう生き様には惹かれてしまう。

 1個人の感情、生き様のような一種の「体臭」は、綺麗な色のサイリウムやペンライトに置き換えられて、きらびやかな衣装やステージで覆い隠されるはず。それなのに、そんな臭いを探しに「アイドルものアニメ」のイベントに足を運ぶ自分がいる。

 やっぱり「アニメ」って、面白い。

 

 「もうやめにしたいのに 終わりが怖くて」?

 

 いやいや、自分には、新しいものを楽しもうとするガッツがまだ残っているはずだ。

「声優嫌い」を克服しにラゾーナ川崎へ行った

 昨日、ラゾーナ川崎プラザで開催されたアイカツフレンズ!の無銭ライブ「ファーストツアー 友だち誘ってどーんとコイッ☆」に足を運んだ。

 関連して感じたことを思いつくまま書き留めたので、あまり文章としてのまとまりはないが、誰かにとって共感できるものとなれば幸いだ。

アイカツフレンズ!ファーストツアー 友だち誘ってどーんとコイッ☆|大会/イベント|データカードダス アイカツフレンズ!

 

 そもそも、自分は「声優の話題」「声優イベント」が苦手だった。理由はいろいろあるが、ビジネスの臭いがとりわけ強く感じられたことや、アニメファンだった人が声優を追いかけるうちにアニメそのものに興味をなくしてしまうのを間近にたくさん見てきたことが大きいと思う。

 大学に入って環境が変わり、自分も「声優」に対する認識を改めたいと思った。今までは「声優嫌い」を自称してきたが、そうはいっても演者としての声優には一定の敬意を持っているし、声優ライブにしたって自分は大勢で集まるのが苦手な質ではない。世の中は変わらないが、自分の認知を変えることなら少しはできる。そう思った矢先、夢中になったテレビアニメが「アイカツフレンズ!」だった。

 5月5日に川崎で無銭ライブがあることを知った。「アイカツフレンズ!」で声優イベントを好きになれないなら、自分は一生声優の話題を楽しめないかもしれない。でもここはひとつ、「アイカツ」のネームバリューを信じて足を運んでみよう。

 そんな気持ちで、ラゾーナ川崎へ向かった。

 

 

イベントは、まあまあ楽しむことができた。それは、前列に設けられた「小学生以下観覧エリア」の子どもたち(こだわりはないが、女の子に混じって凄く楽しそうにしている男の子が目に留まったので本稿では「子どもたち」と書く)のお蔭だ。

無銭イベントだけあって、役者・会場の成年男女はともに、子ども達に楽しんでもらうことを最優先していた。これが、自分にとってよかった。子どもが楽しそうにしている姿を見るのは、それだけで幸せな気持ちになるものだ。

 

 帰りの電車の中でふと考えた。

 子どもが楽しむことが自分の楽しみの全てであるとき、もし子どもが楽しそうにしていなかったら?「子ども」という名の偶像から、現実の子どもがはみ出した行動をとったときには?女児向けアニメにもよく登場する「娘に過剰な期待をしたり、理想像を押し付けたりしてしまう親」の顔が、頭をよぎった。

www.tv-tokyo.co.jp

(リンク先はイメージです)

 

 

 今回は、「アイカツ!」シリーズが大好きな諸先輩(子どもたち)に助けられた。しかし、いつまでも子どもに頼ってはいけないと思う。

 イベントで隣になったおじさんは、娘の付き添いで来たそうだ。「自分はこれ(アイカツ)のことは分からないのだけれど」と言いながら、小学生以下のエリアへ行き、離れ離れになってしまった娘を心配していたが、いざイベントがはじまるとおじさんなりに楽しんでいるようだった。

 自分自身の力で、もっと「アイカツフレンズ!」のイベントを楽しめるようになりたい。せっかく大人がひとを楽しませようと用意したものがあるのだから、最大限楽しまなければ損というものだ。

 

楽しいのが一番☆ - 二階堂ゆずオンリーイベント

(6月24日に京都で開催するそうです、興味があれば是非)

 

 ライブ中に小学生以下観覧エリアへ降りてきた演者に素早くファンレターを手渡す歴戦の女児や、テレビアニメの劇中台詞を再現してみせる演者の様子などを反芻していると、MCのある呼びかけを思い出す。

 「友だち誘って、来てくれましたか~~~?」

 

 

 もちろん、声優に対する複雑な思いが消えてなくなったわけではない。自分が声優ライブに行って「楽しかったよ」と但し書き無しで言えるようになるまでには、まだ少し時間がかかりそうだ。

 それにしても、昨日は大きな心変わりをした日だった。「こんな面白いものがあるんだよ」と、自分が他の人を声優イベントに誘う。そんな未来があってもいいかなと、はじめて思った瞬間だった。

踏み出す一歩の足の下 ~アイカツフレンズ!奇跡の90秒~

 

すごいアニメが現れた!

 

 「アイカツフレンズ」1話の出来には目を見張るものがあった。決して派手さ一辺倒ではない。むしろ、主人公の置かれた環境を手際良く描いてみせつつ、細やかな芝居でキャラクターの個性を的確に表現しているところに妙がある。さらには、繊細さに入れ込みすぎるのではなく、「アイドルもの」としてしっかりとキャッチ―な華やかさをも備えており、そのバランス感覚には驚嘆すべきものがある。

 「アイカツフレンズ」は2018年4月末までに4話まで放送された。物語の輪郭が見えてきたこともあり、実生活も落ち着きを取り戻したGWのタイミングで、「アイカツフレンズ」の1話導入部が、いかに優れたものであったかを振り返りたい。

 

本稿ではとくに、1話のはじまりからオープニングテーマがはじまるまでの90秒間に焦点をあてた。なぜなら、新しい世界、新しい仲間との出会いを描くにあたりこの90秒間が特に重要な役割を果たしていると考えるからである。

なお、「アイカツフレンズ」のストーリーは今までの「アイカツ」シリーズと直接の連続性を持たず、シリーズを知らない人でも問題なく視聴できる。このことを踏まえ、本稿は「アイカツ」シリーズ自体まったくの未見である人に本作の魅力が伝わるよう心掛けた。既に「アイカツフレンズ」を追っている人にとっても、本稿が魅力を再確認することに少しでも貢献すれば幸いである。

 

www.youtube.com

 

舞台はどんな街?

 

 1話冒頭を映像の時系列に沿って確認していこう。

 本編開始とともに、高所のカメラが舞台となる街をぐるりと一望する。

 よく晴れたさわやかな朝。小高い丘を遠くに望む開けた台地の中心に近いところで、川が穏やかに流れている。均質な住宅が川を挟んで整然と配置され、町の中心にはアーチ型の橋がかかっている。さながら西洋都市のようだ。

川沿いには人工的に植えられたと思しき満開の桜並木。理想的な西洋都市のモチーフが散りばめられながらも、日本的な桜並木の存在は親しみを感じさせるに十分である。

 町全体に鐘の音が鳴り響いている。レンズが左手を捉えていくと、音の主である鐘つき時計台が視界に入ってくる。住民に等しく「時間」という秩序を与える鐘が現在でも機能していることから、住民同士は古くから結びつきが強く、親密な関係にあると推測される。

住民同士の親密さは伺えるが、かといってこの街は閉鎖的な空間でもない。画面では観光船のようにも見える船が川を往来しているのが確認できる。さらに川に沿って視線を画面奥にやると、高層ビルの立ち並ぶ都市が程近い所にみえる。

ここまでの情報を総合すると、この街は住民同士が親密な関係を築きながらも、外の情報が絶えず入ってくる風通しの良い街であることになる。ここで育った子どもは、基礎的な人付き合いを得意としながら、未知の経験や価値観に柔軟に対応できることだろう。街の空気にみられる「バランス感覚」は、本作全体に通底するものであり、作品の仕上がりを一段階上のものにしているように思う。

 映像ではこの後カメラが切り替わって、鐘つき時計台がはっきりと映し出される。時刻は午前8時。時計台には錆びた跡があり、古くに建造されたことが伺えるが、朝日に照らされた鐘は輝いており、きちんと手入れがされているようだ。

 

街中にみる友希あいねの人物像

 

 鐘の音は続く。桜の花びらがはらはらと落ちる中、軽快な足音とともにピンク髪の少女の頭が映る。

 カメラは再び時計台へ。今度は鐘が最初から画面の中心にある。

 町の中心に架かる橋の下。水面に走っていく少女の影。

 カメラが正面から少女を捉える。腰から顎へレンズがスライドする。手に抱えた袋の中には色鮮やかな野菜が入っている。後ろには川沿いの桜が見える。

 ここまでの映像で注目してほしいのは、ピンク髪の少女―――友希あいね―――の顔がまだ一度も映っていないことだ。走っている少女が何という名前であるかを説明することに時間は割かれない。にも拘わらず、視聴者はその特徴的な髪色、リボン等々から、3カットで映ったキャラクターが主人公であることを前提として観ている。そして、「荷物を抱えながら軽快に走る、活動的な女の子」という主人公の人となりが瞬時に印象付けられているのである。

 「アイカツフレンズ」1話は、主人公の身の回りを濃密に描写しながら、非常にテンポよく出来事が進行する。25分の間に、主人公の初ステージ、さらにはその後まで描いてしまう。

 同じ「アイドルもの」でありながら、対照的な導入がなされるテレビアニメとして「THE IDOLM@STER(2011年、以下『アニマス』)」を挙げることができるだろう。アニマスでは最初の1話すべての時間を使い、メインとなる13人のアイドルをゆっくり描写していく。ステージにアイドルが立つのは3話だ。

 どうしてこの差が生じるのか。要因はいろいろ考えられるが、最大の要因はメインキャラクターの数の差にあろう。「アニマス」が13人のアイドルを平等に登場させることに苦心したのに対し、アイカツフレンズで初期にキービジュアルが公開されたアイドルは6人。さらに、「アニマス」と違ってストーリーの中心を担うキャラクターを「主人公」と定義し、存分に一個人にスポットライトを当てることができる。事実、アイカツフレンズ1話では友希あいねと湊みおという2名のキャラクターの「出会い」を描くことに多くのリソースが割かれている。

 話の進行が早い「アイカツフレンズ」に、主人公の名前や性格を説明台詞等で紹介する時間の余裕はない。その中で、キャラクターの性格は、台詞なしの短いカットの連続で、芝居によってたくみに表現される。全編を通じて存在するキャラクター表現のエッセンスが、「最初の1人」である友希あいねの登場時には凝縮されている。

 

 次のカットでは、ついにピンク髪の少女の名前が明示される。この時の明示の仕方にも注目しながら見てみよう。

 桜並木の横にいた少女が顔をあげ、走ってくるあいねの姿をみつける。

「あっ、あいねちゃんだ!」「やっほー! えりちゃん、元気?」とあいねは笑顔で応答する。友人と思しき「えりちゃん」に「あいね」という名で呼ばれた後にはじめて、あいねの顔全体が明示される。ただし、場面はここで止まらず、あいねが走ってきた勢いのままもう少しだけ展開していく。「おうちのお手伝い?」とひまりちゃん。「うん!」とあいね。ここではじめてあいねは足を止める。

 よく考えると、このシーンは現実をかなり濃縮したものであることに気づくはずだ。まず、あいねは「えり」に話しかけられ、足を止めることなく返答した。その直後、映像では間髪入れず「ひまり」があいねに「おうちのお手伝い?」と問うている。編集の結果、視聴者はあいねの会話を「友人と挨拶を交わした後、自分が手伝いの最中であることを説明する」一連の動作として認識する。しかし、実際には「えり」との会話、「ひまり」との会話は「別の他者」との会話である。両者との会話の間にはもう少し間隔があったはずだ。

 もちろん、ひとりの友人と続けて会話をしても、「あいねは朝から手伝いをする少女である」ことは示せる。しかし、会話が連続しているかのように複数人と会話させることで、「あいねには友人がたくさんいる」ことが台詞なしで示される。つまり、「ひとりの友人と話した時間」の間に、「複数人と話した結果得られる量の情報」を提示しているのだ。このことにより、あいねの人となりは短時間で一層明瞭になる。

 1話冒頭では、慣れ親しんでいる人々との日常的な交流が描かれるのだから、「友希あいね」のことを良く知らない視聴者向けに自己紹介の台詞を挟んでは不自然だ。そこで、日常の動作、キャラクター同士の会話をカメラが上手く編集することで、日々の生活を凝縮して描きながら「友希あいね」の個人情報を視聴者に的確に示していくのだ。これこそが「アイカツフレンズ」である。

 

 「ひまりちゃん、いろはちゃん、また遊ぼうね!」あいねには優先してすべき「家の手伝い」があるらしく、笑顔で手を振りながらまた駆けだしていく。

 「ペンギンカフェ」の看板が大きく映し出される。「ただいま」とあいねの声。「ペンギンカフェ」が彼女の家であるとわかる。

 「おかえり」という父と思しき声。「ペンギンカフェ」の全体が映し出された後、ドアが閉まる。

 ここまでは、街中という「家の外」で友希あいねの人となりが描写されてきた。「街」から見たときの友希家(=ペンギンカフェ)の全体像が映るのを最後に、カメラはついに友希家の中へ入っていく。

 

家の中にみる友希あいねの人物像

 

 イチゴが摘まれている。ハサミを持ったあいねの顔が映る。イチゴ摘みをしていたのは家に帰ったあいねであり、「家の手伝い」とはイチゴ摘みのことだった。イチゴに限らず、収穫物は朝摘みが美味しいといわれる。あいねが、友人と上手にコミュニケーションをとりながらも急いで帰宅していたのは、少しでも早い時間のうちにイチゴを摘んでしまうためだったのだ!誰が見ているわけでもなし、歩いて家へ帰り、それからイチゴ摘みをしたところで咎める人はいない。それでも、なるべく良い状態で収穫したいと思い行動するところに、彼女の性格の良さが表れている(余談だが、「アイカツ」シリーズの初代主人公の名は「いちご」であった)。

「つやつや! おいしそう~」朝摘みのイチゴは美味しい、と彼女は説明してくれる。それだけでなく、いちごに目を輝かせてひとつつまんでしまう。

 それを素早く見とがめるキリリとした目。視聴者はその目がペンギンのものだとわかる。

 ここまでは繊細で「真面目」な描写が多かったが、そればかりでは集中力が持たない。そんな視聴者を慮ってか、「ペンギン」という現実にはカフェにいない動物の登場によって、コミカルなお芝居が展開し始める。

 

 あいねが視線に気づく。振り向く前にペンギンの視線だとわかったのだろう。振り向くと同時に「しーっ、ぺんね、内緒だよ」。ちょっぴり慌てた感じがコミカルに描写される。ぺんねは頷く。あいねが視線の主をぺんねと断定していたことから、ぺんねは日常的に子ども達を見守りながら相手をしており、普段から粗相やいたずらを見つけているのかもしれない、とも推測できる(因みに、1話Bパートでは夕食を待つよしつね(あいねの弟)に「いないいないばあ」を、4話Aパートではももね(妹)の相手をそれぞれしている)。

額縁にかかったペンギンの絵。ペンギンは家庭で大切に扱われている。

 

「ええっ こんなに」料理場にいる父母、カウンターに座るあいね。調理場にはトマト、レタス、タケノコ。「サービスだって!八百八のお姉さんと友達になっちゃった」調理場の野菜が、あいねが冒頭で抱えていたものだとわかる。

 ここでまたひとつ疑問が生じる。あいねが家に帰ってすぐ母にに貰い物(野菜)を見せなかったのはなぜだろうか?なぜイチゴ摘みをした後にあいねと母ははじめて顔を合わせているのだろうか?

 帰宅時に父の声がすることから、両親が遅くまで寝ていたわけではなさそうだ。さらに、3話冒頭の早朝「今日はお店、お休みだもん!お寝坊させてあげて」という台詞があり、デリバリーを受け付ける営業日に母が遅くまで寝ている、という仮説は完全に否定される。

 あいねと母がなぜイチゴ摘みの後はじめて顔を合わせるのか、この問いに対する答えは明示されていない。だが、カフェの営業日であることを考えれば、母とあいねはそれぞれ店の準備、手伝いをしていたと考えるのが妥当だろう。あいねはイチゴを美味しく収穫するために自主的に走って帰る子だ。誰かに言われるまでもなく家の中での自分の役割を把握していて、帰ってからそのまま「お手伝い」にいそしんでいたのだろう。帰宅時に「おかえり」と父の声がすることから、父とはいくらか会話があったかもしれない。どちらにせよ、父、母、あいねがそれぞれ自立して家庭内での役割を果たしていることが、カメラはあいねのみに向けながらも良く描写されている。この世界の他者は、RPGの村人のように主人公(あいね)を待ち、主人公に接触してはじめて動き出す人々ではない。各人がそれぞれの生活を営んでいて、その中の一人として友希あいねというキャラクターが存在するのだ。このような描写から「生活感」が生まれ、過度に理想的とも思える街に生身のキャラクターが住んでいることが実感されてくるのではなかろうか。

 

 「いいのかしら」「あいねは友達作るの上手だものな」

 「ともだちアルバム vol.24」の表紙が映る。表紙からも「友達が多く、あいねはそれを記録している」ことがわかる。ここにも「アイカツフレンズ」の特徴が良く表れている。細かな描写で示されたキャラクターの性格は、視聴者に分かりやすいようストーリーの流れの中で繰り返し示されるのだ。個人的には細やかなお芝居の詰まった密度の濃いテレビアニメは大好きなのだが、そればかりでは疲れてしまったり、話が分からなくなってしまったりすることがあるかもしれない。木曜の夕方という恵まれた放送時間を持つテレビアニメとして、「細やかな芝居はしつつなるべく多くの人に楽しんでもらおう」という意志を感じる。これも、「バランス感覚」の一種といえようか。

 

 さて、「ともだちアルバム」を開くと、友達の似顔絵や写真がたくさんみえる。写真の一枚はあいねの顔が左下に映っている構図(ラ!の何かを連想させる)。さらにページをめくると「八百八のおねえさん」がもう描かれており、あいねは清書をする。イチゴ摘みの後にひとりで似顔絵の下書きをし今に至る、というところだろうか。

 カウンター越しにあいねと両親が向かい合う。母「ともだちアルバムね(これも「繰り返し」の説明!)」

 「もうすぐ新学期だから、新しい友達をたくさん作って、もっともっとページを増やしていきたいんだ」「あたしの目標、めざせ!ともだち100万人!」とにっこり。

 「素敵なお友達ができるといいわね」ここで、母のこの台詞にも注目してみよう。あいねの「友達を100万人」は彼女の外向性がよくあらわれた口癖であるが、「口癖」ゆえ彼女の「友達」は軽い言葉のようにも聞こえてしまう。最近の若者はクラスメイトや顔見知りをも「友達」として捉える人が少なくないという。「友達」の指し示す範囲が昔より広がっているのだ。そんな中で悪意を持って見れば、あいねの「友達100万人」友達の「数」にしか関心がない態度のようにもみえてしまう。そんな彼女に対し、新学期に期待を膨らませているあいねの言葉を尊重しながらも、「素敵なお友達」とさりげなく「友達の数」以外の価値尺度を提案する。いいお母さんだ!さらに、この言葉は1話でストーリーの中心となってくる「特別な出会い(湊みお)」を予言するものとなっている。 

 

 そして、本稿の書き手とは異なり特に言葉を深読みするでもなく、笑顔のまま元気よく「うん!」と返答するあいね。そこに電話の音が入る。母が音を聞いて振り向く。

 「はい ペンギンカフェです」ビジネスの場においても、母のあたたかな声色は変わらない。このアットホームさは「ペンギンカフェ」の魅力のひとつに違いない。

 「はいはい あいね、デリバリー頼んでいい?」「うん わかった」あいねは慣れた反応である。

 バスケットを持ち上げる。

 「いってきまーす」と振り返るあいね。外は光り輝いていて見えない。見送る両親とぺんね。あいねは「家から街へ出かけていく」に過ぎないのだが、ここまで描写を見てくれば、「街や家族に見守られながら、未知の領域(アイカツ)へと踏み出していく様子を象徴している」ように見えてこないだろうか。

 駆けだしていくあいねの輝く瞳。

 「きっとすぐ傍にいるよ 私達はひとりじゃないから」のフレーズとともに、オープニングテーマが流れ出す。

 

アイカツフレンズ!を観よう!

 

 いかがだっただろうか。冒頭の90秒という短い時間に、友希あいねというひとりの少女が新たな一歩を踏み出す前の土台がこれだけしっかりと、しかし無理なく描かれているのだ。

 本編ではこの後、先程も少し触れたようにあいねと「湊みお」の出会いが丁寧に時間をかけて描かれ、あいねは新しい世界へ踏み出していく。第1話の要点は「未知との出会い」だ。

 多くのテレビアニメでは、主人公は元々いた「日常」から離れ、新しいことと出会ううちに成長していく。それは、「アイカツフレンズ」も例外ではない。

 ただ、視聴者である我々は、キャラクターが「1話」以前にどのような日常を送ってきたか、全く知らない。アイドル活動を始めてからの「友希あいね」しか知らないようでは、「普通の女のコ」が踏み出すはじめの一歩、その重みは分からない。

 アイカツフレンズ冒頭では、あいねの身の回りが手際よく描写されていた。それは、物を語る技術としてすぐれているだけでなく、物語そのものにも一層の深みを与えている。

アイカツフレンズ」は現在、1~4話までが無料で配信されている(5月7日18時まで)。もし本稿を読み、興味を持ってくれた人がいたとしたら、是非ともゴールデンウィークを利用して試聴してほしい。 

www.aikatsu.net

 そして、このような映像作品が一か月前に現れたことを認識したとき、こう言わずにはおれないのではないだろうか。「テレビアニメの1話として完璧な1話だった」と。